ギルウェル山の会

ボーイスカウト関係者による登山の同好グループの山行記録。

vol.2「みんな山が大好きだった」

「みんな山が大好きだった」

山岳遭難(ノンフィクション・ルポルタージュ)から学ぶ

山際淳司著 中公文庫 ¥780

 

 『 "幸福な死"と"不幸な死"があるならば、山における死は、明らかに前者に属するのではないかと思う。人間の死は大抵の場合不幸だとなっている。それは、この世に取り残された側の感傷のせいでもある。悲嘆にくれるのは死んだ本人ではなく、死んだ人を送らなければならない人たちだ。では、死んでいく側にとって幸福な死とは何だろう。生きているうちに、ひとつも遣り残したことが無い"大往生"は幸福な死だろうか。
 アルピニストの死が全て幸福な死であるとは思わない。山における死といっても、さまざまなケースがある。死と格闘する間もなく予期せぬ死に見舞われたことは、誰にとっても不幸なのである。
 死と格闘することを前提にして山に赴く先鋭的なアルピニストと呼ばれる男たちがいる。彼らはもちろん死のうと思って山に行くわけではない。あらゆるケースを想定し、それを乗り越えられる体力、知力、技術があると信ずるから出かけていくのだ。しかし、それでも死とすれすれの関係になることを知っている。
 アルピニズムとは、山において多くの困難を自ら引き受け、それを乗り越えていく姿勢を意味している。先鋭的アルピニストであればあるほど、死を意識せずにはいられない。生と死のきわどい吊り橋を渡ることになる。死はいつも彼らのすぐ隣にいるのを承知で、雪煙を求めて氷壁に向かっていく。彼らはいわば、死に対する確信犯である。
 彼らに対し死は突然やってくるが、それは偶然ではない。必然的にやってくる死である。先鋭的アルピニストたちはそれを知っている。知りつつなお、死の領域に足を踏み入れてしまうのだ。生と死が紙一重で交差している領域が彼らにとっては限りなく魅力的であるからだろう。
 ひるがえって、私たちは日常生活の中で死を意識するのは難しい。平坦な生ばかりが溢れ退屈した世の中は、死を忘れてしまった時代の不幸の一つだ。生きることに対する緊迫感が失われ、座標軸が消失し、浮遊するようにふわふわと生きている。雪煙に消えていった男たちを今一度、蘇らせることによって彼らの切羽つまったロマンチシズムを解剖してみようと思うのだ。残された私たちが鮮烈に生きることを、つかの間思い出すためにである。
 ジャン・コストはこう言っている。「 もし私が山で命を落としても、悲しみ嘆いてくれるな。それよりも、あいつは望んでいたような死にようをしたと言ってくれ」。
 山における死は、ひとつの特権なのだ。それは無駄な死ではない。最も力強い物象の真只中で、全力を尽くして闘っているときに生命を失うことは死に甲斐のある事なのである』…本文より

 加藤保男、森田勝、長谷川恒男、松濤明、加藤文太郎など、有名な登山家の名前を、山に登っている人なら、鮮烈に覚えていると思います。そして彼らはいずれも、山で遭難して帰らぬ人となってしまった。
 名アルピニストたちの生と死を、限りない哀惜を持って、山際淳司が彼らの生き方を綴ったのが本書である。
 "人は何故山に登るのか"
 "危険な行為を何故するのか"
 この古くて新しい疑問に対するひとつの答えが本書であるかもしれないし、読む人によって全く理解が出来ない、別な世界の生き方かもしれない。

 

(H林)

 

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