ギルウェル山の会

ボーイスカウト関係者による登山の同好グループの山行記録。

vol.5 「残された山靴」

山岳遭難 ( ノンフィクション・ルポルタージュ ) から学ぶ


  「残された山靴」

 ーヒマラヤの8000メートル峰登頂など高峰に憧れ、志半ば山に逝った登山家8人の最期を描くー

 

  佐瀬 稔著   ヤマケイ文庫  \880

 

 

アルピニズムの歴史に、自分自身の1ページを書き残した人々に共通しているのは、言うまでもないことだが、強靭な心身、特に生死の境目でおのれを支え抜くタフな精神であり、まさに恐るべき、の一語に尽きる。そういう人々もアルピニストであり続ける限り、高所での死を避けることはできなかった。目前にある死を凝視し続けた末、境界線の向こう側に歩み去って行った。アルピニストであることを人生の途中で止めない限り、行動のさなかの死は必然とさえ言えた。当時の日本を代表する登山家8人の山に向かう心情や、行動に共感し綴られたレクイエム。著者の佐瀬稔も病に倒れ、最期の著作となった。


  森田勝  … グランド・ジョラス北壁の生と死 …
 1980年2月、彼はグランド・ジョラス、ウォーカー側稜の攻撃に出発し、そして帰ってこなかった。森田がグランド・ジョラスで命を落としたとき、ジュネーブの勤務先で加藤保男の兄、加藤滝男はこう言った。「山で死ぬことですか。僕は誰が死んでも『ああやっぱりね』。という感想しかありませんね。ロープ使って岩登りをやってる限り,死は背中合わせにくっついているものです。登山家の死は『まさか』はない。たとえ僕の弟であっても。」

  加藤保男  … エベレストの雪煙に消えた山の貴公子 …
 1982年12月、エベレスト東南稜からの、厳冬期エベレスト登頂を計画する。「3時55分、頂上に立ちました。」と、加藤の声。現在地は南峰のピークで、これからツェルトをかぶりビバークすると言う。生死の境界線上、しかも厳冬期の夜。「酸素は切れているが大丈夫。」と、加藤は元気な声で語り、翌朝7時に交信することにして無線を切った。夜半 、天候が急変し、第二キャンプのテントが突風で吹き飛ばされた。28日朝7時、交信なし。第二キャンプが必死に呼んだが応答なし。29日夜、隊は二人の生存可能性なしと判断した。82年以降、多くの登山家がエベレスト東南稜を行き来したが、加藤保男、小林利明、両名の姿を見たものはいない。

  植村直己  … 時代を越えた冒険家 …
 アルピニストとして、肉体的には避けられない晩年にさしかかった43歳の誕生日、執着しぬいた厳冬期マッキンリー単独登頂を果たした後、帰らぬ身となった。外国の土を踏むこと自体、冒険だった時代はまさに存在した。この行動者、そして表現者は、そこから飛び出し、やがて来るはずの時代を性急に求め続けた末に、マッキンリーという『別の星に』消えて行った。余人にはとうてい理解しがたい青春。執着の残るマッキンリーという星に、である。植村直己はまぎれもなく『時代の子』だった。時代を超え次の時代をさらって行った。という意味において……。

  鈴木紀夫  … 雪崩に埋没した雪男への夢 …
 昭和61年9月29日、6回目のヒマラヤ行きに出発。ポカラからダウラギリ山域に入り、それっきり帰ってこなかった。1年後、雪崩の巣とみられるキャンプ跡から白骨化した遺体が発見された。

  長谷川恒男  … 運命のウルタルⅡ峰 …
 1990年10月、未踏峰ウルタルⅡ峰を狙って敗退した後、翌年10月再度登頂を試みたが、5300メートルあたりでパートナー1人とともに雪崩に遭い、約1300メートルを叩き落されて死亡。長谷川恒男という人物は、虚無の氷壁を攀じ登り、ホワイトアウトの氷河上を彷徨し、手で触れられるほど近いところで、己の命の躍動を生き生きと感じた。目前にそびえる懸垂氷河直下の垂壁。それこそは生を証明する美に満ちていた。40歳過ぎのクライマーの目には、そう映った。 躍動の生と必然の死の間には、一歩の距離さえない。

  難波康子  … 風雪に砕かれたビジネスキャリアウーマンの夢 …
 難波康子のエベレストは、ロブ・ホールが主宰するエベレスト公募隊の募集に応じたものだった。金さえ払えば自動的に、世界最高峰に連れて行ってもらえるという契約ではない。死の匂う極限の場所で求められるのは、『自らの生死は自らが責任を負う』という自己責任で行われる。1996年5月9日午後11時30分、ストイックに夢を求め続けてきた、やさしくてタフな女性は、 C4を出発した。ホール隊25人が頂上を目指した。康子は2時半、頂上に達した。天候が急変し、強風が吹きブリザート荒れ始めた。ブリザートとなり、視界はゼロ。隊員たちはバラバラとなり、生き残りの極めて薄い闘いに引き込まれる。難波康子は、視界がやや晴れた11日午前9時ごろ、C4から400メートル程離れたところで、上半身雪に埋もれた遺体となって発見された。死亡を確認された者が4人。行方不明が1人。夢に忠実・誠実だった人々がそういう結末を迎えた。日本の女性がエベレストの頂上を踏んだのは、田部井淳子以来、21年ぶりで2人目であった。カメラの中に残されていたフィルムを現像してみたら、写真の中の康子はどれも素敵な笑顔で、少しふっくらしている。本当に楽しそうな表情をしている。

  山崎彰人とクライマーたち  … 死の山・いのちの山「ウルタル」 …
 1997年7月21日、ウルタルⅡ峰の5200メートルのデポ地点で、午後11時、山崎の呼吸が止まった。 6時45分に7388メートル未踏の頂上に達し、わずか15分いただけで、すぐに下降にかかる。23日ポーター6人が上がってきて、遺体をガスバード経由でギルギッドまでおろした。イスラマバードに運び、30日山崎の家族等の到着待って荼毘。死者たちを含めて、人間をとらえて離さなかった恐ろしい山の呪縛は、ようやく解けた。 ハッピーエンディングでもなければ、悲劇的終幕でもない。あるいは、かくも人々の心を駆り立て続けた初登頂の時代が、ウルタルとともに終わり告げるのか。

  小西正継  … 限りない優しさの代償 …
 58歳でマナスルに.1996,9月30日、午前10時C3を出て、午後5時頃頂上に達する。下山途中、午後11時頃三村はビバークサイトを確認し、小西を連れに戻るが、小西の姿はなかった。 小西は若い頃は、無酸素、未踏、バリエーションルートからの登頂が8000メートル峰登山がモットーだった。1982年チョゴリ(K2)を無酸素、シェルパレス、全員登頂、の目標を揚げて組織したことがある。そのとき、出発前に10人の隊員に次のように言った。『 僕が8200メートル地点で限界になり、くたばっていても、みなさんは助ける必要はありません。なぜなら、これは僕個人の失敗であり、自分の力を考えれば、もっと低い地点で下山しなければならないのに、突っ込んだから悪いのです。逆にみなさんの誰かが、頂上付近で倒れても、僕は絶対に手を出しません。8611メートルを無酸素で勝ち取るには、これは常識的なことです。』……本文より。

 

                             (平林)

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