ギルウェル山の会

ボーイスカウト関係者による登山の同好グループの山行記録。

vol.5 「残された山靴」

山岳遭難 ( ノンフィクション・ルポルタージュ ) から学ぶ


  「残された山靴」

 ーヒマラヤの8000メートル峰登頂など高峰に憧れ、志半ば山に逝った登山家8人の最期を描くー

 

  佐瀬 稔著   ヤマケイ文庫  \880

 

 

アルピニズムの歴史に、自分自身の1ページを書き残した人々に共通しているのは、言うまでもないことだが、強靭な心身、特に生死の境目でおのれを支え抜くタフな精神であり、まさに恐るべき、の一語に尽きる。そういう人々もアルピニストであり続ける限り、高所での死を避けることはできなかった。目前にある死を凝視し続けた末、境界線の向こう側に歩み去って行った。アルピニストであることを人生の途中で止めない限り、行動のさなかの死は必然とさえ言えた。当時の日本を代表する登山家8人の山に向かう心情や、行動に共感し綴られたレクイエム。著者の佐瀬稔も病に倒れ、最期の著作となった。


  森田勝  … グランド・ジョラス北壁の生と死 …
 1980年2月、彼はグランド・ジョラス、ウォーカー側稜の攻撃に出発し、そして帰ってこなかった。森田がグランド・ジョラスで命を落としたとき、ジュネーブの勤務先で加藤保男の兄、加藤滝男はこう言った。「山で死ぬことですか。僕は誰が死んでも『ああやっぱりね』。という感想しかありませんね。ロープ使って岩登りをやってる限り,死は背中合わせにくっついているものです。登山家の死は『まさか』はない。たとえ僕の弟であっても。」

  加藤保男  … エベレストの雪煙に消えた山の貴公子 …
 1982年12月、エベレスト東南稜からの、厳冬期エベレスト登頂を計画する。「3時55分、頂上に立ちました。」と、加藤の声。現在地は南峰のピークで、これからツェルトをかぶりビバークすると言う。生死の境界線上、しかも厳冬期の夜。「酸素は切れているが大丈夫。」と、加藤は元気な声で語り、翌朝7時に交信することにして無線を切った。夜半 、天候が急変し、第二キャンプのテントが突風で吹き飛ばされた。28日朝7時、交信なし。第二キャンプが必死に呼んだが応答なし。29日夜、隊は二人の生存可能性なしと判断した。82年以降、多くの登山家がエベレスト東南稜を行き来したが、加藤保男、小林利明、両名の姿を見たものはいない。

  植村直己  … 時代を越えた冒険家 …
 アルピニストとして、肉体的には避けられない晩年にさしかかった43歳の誕生日、執着しぬいた厳冬期マッキンリー単独登頂を果たした後、帰らぬ身となった。外国の土を踏むこと自体、冒険だった時代はまさに存在した。この行動者、そして表現者は、そこから飛び出し、やがて来るはずの時代を性急に求め続けた末に、マッキンリーという『別の星に』消えて行った。余人にはとうてい理解しがたい青春。執着の残るマッキンリーという星に、である。植村直己はまぎれもなく『時代の子』だった。時代を超え次の時代をさらって行った。という意味において……。

  鈴木紀夫  … 雪崩に埋没した雪男への夢 …
 昭和61年9月29日、6回目のヒマラヤ行きに出発。ポカラからダウラギリ山域に入り、それっきり帰ってこなかった。1年後、雪崩の巣とみられるキャンプ跡から白骨化した遺体が発見された。

  長谷川恒男  … 運命のウルタルⅡ峰 …
 1990年10月、未踏峰ウルタルⅡ峰を狙って敗退した後、翌年10月再度登頂を試みたが、5300メートルあたりでパートナー1人とともに雪崩に遭い、約1300メートルを叩き落されて死亡。長谷川恒男という人物は、虚無の氷壁を攀じ登り、ホワイトアウトの氷河上を彷徨し、手で触れられるほど近いところで、己の命の躍動を生き生きと感じた。目前にそびえる懸垂氷河直下の垂壁。それこそは生を証明する美に満ちていた。40歳過ぎのクライマーの目には、そう映った。 躍動の生と必然の死の間には、一歩の距離さえない。

  難波康子  … 風雪に砕かれたビジネスキャリアウーマンの夢 …
 難波康子のエベレストは、ロブ・ホールが主宰するエベレスト公募隊の募集に応じたものだった。金さえ払えば自動的に、世界最高峰に連れて行ってもらえるという契約ではない。死の匂う極限の場所で求められるのは、『自らの生死は自らが責任を負う』という自己責任で行われる。1996年5月9日午後11時30分、ストイックに夢を求め続けてきた、やさしくてタフな女性は、 C4を出発した。ホール隊25人が頂上を目指した。康子は2時半、頂上に達した。天候が急変し、強風が吹きブリザート荒れ始めた。ブリザートとなり、視界はゼロ。隊員たちはバラバラとなり、生き残りの極めて薄い闘いに引き込まれる。難波康子は、視界がやや晴れた11日午前9時ごろ、C4から400メートル程離れたところで、上半身雪に埋もれた遺体となって発見された。死亡を確認された者が4人。行方不明が1人。夢に忠実・誠実だった人々がそういう結末を迎えた。日本の女性がエベレストの頂上を踏んだのは、田部井淳子以来、21年ぶりで2人目であった。カメラの中に残されていたフィルムを現像してみたら、写真の中の康子はどれも素敵な笑顔で、少しふっくらしている。本当に楽しそうな表情をしている。

  山崎彰人とクライマーたち  … 死の山・いのちの山「ウルタル」 …
 1997年7月21日、ウルタルⅡ峰の5200メートルのデポ地点で、午後11時、山崎の呼吸が止まった。 6時45分に7388メートル未踏の頂上に達し、わずか15分いただけで、すぐに下降にかかる。23日ポーター6人が上がってきて、遺体をガスバード経由でギルギッドまでおろした。イスラマバードに運び、30日山崎の家族等の到着待って荼毘。死者たちを含めて、人間をとらえて離さなかった恐ろしい山の呪縛は、ようやく解けた。 ハッピーエンディングでもなければ、悲劇的終幕でもない。あるいは、かくも人々の心を駆り立て続けた初登頂の時代が、ウルタルとともに終わり告げるのか。

  小西正継  … 限りない優しさの代償 …
 58歳でマナスルに.1996,9月30日、午前10時C3を出て、午後5時頃頂上に達する。下山途中、午後11時頃三村はビバークサイトを確認し、小西を連れに戻るが、小西の姿はなかった。 小西は若い頃は、無酸素、未踏、バリエーションルートからの登頂が8000メートル峰登山がモットーだった。1982年チョゴリ(K2)を無酸素、シェルパレス、全員登頂、の目標を揚げて組織したことがある。そのとき、出発前に10人の隊員に次のように言った。『 僕が8200メートル地点で限界になり、くたばっていても、みなさんは助ける必要はありません。なぜなら、これは僕個人の失敗であり、自分の力を考えれば、もっと低い地点で下山しなければならないのに、突っ込んだから悪いのです。逆にみなさんの誰かが、頂上付近で倒れても、僕は絶対に手を出しません。8611メートルを無酸素で勝ち取るには、これは常識的なことです。』……本文より。

 

                             (平林)

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2014-6/27 博士山

<6月26日(木)>
 笠幡の関根宅発19時10分。加須ICから東北道に乗る。東北道から磐越道経由を予定していたけれど、磐越道の会津若松IC~会津坂下IC間工事のため通行止めの情報。急きょ西那須野ICで下りて会津田島経由に変更する。雨が降ったり止んだり、滅多に車に会わない暗い道を田島から舟鼻峠を越え昭和村から博士山入口の会津柳津町大成沢に着く。真夜中の集落で博士山に行く林道の入口が分からず迷走。ようやく見つけた林道は途中からは二車線の立派な舗装道路になったけれど、ここでまた登山口が見つからずに行ったり来たりしてタイムロス。日も変わった午前1時半頃登山口駐車場を見つけ、車を停めて関根さんのテントを張り早々にもぐり込む。見上げる夜空は満点の星空だった。

 (↓博士山登山口駐車場)

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<6月27日(金)>
 5時起床。テントを畳み軽く朝食を済ませて6時15分登山開始。15分ほどで道海泣き尾根の取り付き点に着く。樹林帯で風が無く汗がしたたり落ちる評判通りの急登。湿った藪の中にギンリョウソウの白い花が目立ちました。

 (↓博士山登山口)

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 (↓道海泣き尾根の登り)

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 (↓ギンリョウソウ

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約1時間でしゃくなげ洞門という岩穴に到着。そこからややゆるくなった道を20分ほどで近洞寺山分岐(稜線)に出る。

 (↓近洞寺山分岐)

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稜線上はブナ、アスナロミズナラの巨樹が次々と現れ、ところどころ盛りを終わったサラサドウダンの花びらで敷き詰められたやせ尾根をたどる。先月18日の山開きに備えたのか、危険なところには真新しいトラロープが取り付けてある。
 一見頂上のように見える前衛峰の社峰を超え緩やかな尾根を15分ほどたどると一等三角点のある博士山1482メートルの山頂に出た。よく山頂にある祠のようなものは見当たらず中央に博士山の標柱が立つ小広場。私は二度目の登頂。初めて登ったとき辿った博士峠からの登山道はやぶに埋もれていた。

 (↓社峰から博士山山頂をのぞむ)

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 (↓博士山山頂1482m)

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 まだ9時前だったが、雲が多く展望も楽しめないので早々に下山する。下りは近洞寺山コースを選択する。この尾根道も展望はほとんどないが、次々と現れる巨樹が目を楽しませてくれる。近洞寺跡の標識がある近洞寺山を過ぎてどんどん下り、標高1000メートル付近で右に曲がる。

 (↓アスナロの巨樹)

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しばらく下ったとき、先頭を歩く関根さんの前に立つ大木から何かが落ちてくる大きな音がした。古い枝でも折れたのかと思わず目を上げたら、黒いものが木の上から落ちてきて、われわれが向かう方向とは逆の急斜面を転がるように去って行った。大きなクマであった。最後尾を歩いていた私はそれほど感じなかつたが、先頭にいて数メートル先に自分の体格ほどもあるクマが落ちてきた(下りてきた?)関根さんの恐怖と驚きは大変なものだったようだ。自分の葬式まで脳裏を巡ったとのこと。
登山口によくある「クマ出没中注意!」の看板も無かったし、3人だったので、クマ除けの鈴も付けず、下りに集中してあまり会話もせずに歩いていたことも遭遇した原因と思われる。クマのほうが多勢に無勢と思ったのか、ただ単に臆病なクマだったのか、幸いにして逃げてくれたが、後で考えると恐怖の一瞬でした。その一方で、50数年間山を歩いていて初めてクマに出会った喜びも噛みしめていました。
 クマと遭遇して感じたことは、とっさの場合に登山用具店で売っている唐辛子スプレーを噴射するなんてとても間に合わないということです。まずは音を出して事前に退散してもらうのが最適と思われます。

 (↓お疲れ様でした。左前方のピークが博士山)

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 12時前には駐車場に戻ってきたので、安全な?駐車場でお湯を沸かして昼食にしました。他に駐車している車は無く、この日博士山に入った登山者はわれわれだけだったようです。それでも今後のこともあるし、山菜取りに入る人もいると思われるので、集落に戻ってクマに遭遇したことを報告することにしました。
 大成沢の集落に戻って製材をしている人を見かけたので報告したらあまり驚くふうでもなく、少し離れた集落にある駐在所に報告するよう勧められたので、次の目的地とは反対方向に10分ほど走って駐在所にいた若い警察官に報告しました。ここでもあまり驚く様子はなく、製材作業の人と同様「ああ、いましたか。」みたいな感想で、先日も行方不明者を探していた警察官2名がクマにひっかかれたとか… どうやらクマはいるのが当たり前なので、格別注意書きも出していないようでした。一応、遭遇した場所、クマの大きさなどをメモし「ご苦労様」の一言で駐在所をあとにして、次の目的地南会津町の「高清水自然公園」を目指しました。
 「高清水自然公園」着14時15分。山中の窪地の小広い草原一面に南東北新潟県の一部にしか咲かない絶滅危惧種のヒメサユリがちょうど見頃を迎えていました。入場料300円。観光バスも来ていたけれど、思ったより人が少なくヒメサユリを堪能することができました。

 (↓ヒメサユリ咲く高清水自然公園)

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入場券を見せれば道の駅「きらら289」日帰り温泉の入浴料700円が500円になるというので、いくつか考えていた日帰り温泉を止めて「きらら289」に直行しました。われわれのほかにほとんど入浴している人がおらず、青空と緑に囲まれた露天風呂を楽しみました。
 16時20分、「きらら289」を出発し駒止トンネル経由で塩原から西那須野ICに出て往路を戻りました。帰宅20時30分。走行距離約590㎞、早々に爆睡しました。

参加者  関根信夫、平林 功、諏訪富雄

                         (諏訪富雄記)

vol.4 「いのちの代償」

山岳遭難 ( ノンフィクション・ルポルタージュ ) から学ぶ

 

「いのちの代償」  

 

  ― 山岳史上最大級の遭難事故の全貌! ―

 

 川嶋 康男著   ポプラ文庫  ¥571

 1962(昭和37)年12月、北海道学芸大学函館分校山岳部のパーティー11名は、冬山合宿に入った大雪山で遭難した。部員10名、全員死亡。生還したのはリーダーの野呂幸司だけだった。かたくなに沈黙を通す野呂に非難が浴びせられた。46年の沈黙を破り、遭難事故の全貌がいま明らかにされる。

 「昭和37年暮れからの表大雪山合宿、11人が2班に分かれて表大雪を縦走。合流後、旭岳からの下山を予定していた年末、天候の急変に見舞われた。強風下、雪洞が壊され、外気に晒されながら一夜を過ごす。だが、下山途中で滑落する者、彷徨する者、崩れるように意識を失くしていく仲間を救うため、救助を求めての下山を決意。奇跡的に生還したのは、パーティーリーダーの野呂幸司ただ一人。それは、栄光なき生還であった。その後の野呂幸司を待ち受けていたのは悔恨と苦渋の連鎖である。ブラックホールに引き込まれるような緊張を強いられ、執拗な問いや周囲の目に追い回される。24歳の学生の心はすでに臨界点を越え、ピアノ線のように異常に張りつめていた。吹雪の大雪からリーダーだけが生還した。パーティーの責任者たるリーダーが生き残った。大方の遺族は、リーダー野呂幸司の生還に割り切れぬ思いを引きずることになる。わだかまりは増幅し、波紋がやがて残響として共鳴し合う」……本文より。

 (H林)

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いちおう、再始動 …!

ブログタイトルの「ギルウェル山の会(仮)」の(仮)を取ることにしました。

 

これからは、正式に「ギルウェル山の会」です。

 

我々は、現状、少数精鋭(!)です。

ボーイスカウト活動は、少年達のための活動です。

われわれはオジさん達です。

今後はオバさんも増えるかもしれませんが…。

 

 ボーイスカウト活動を出汁にして、大人だけで楽しもうとしているな? …との誹りを受けるかもしれません。

 ですが、この会を立ち上げたのは、そんな単純な理由ではないのです。

 

 

 

 ボーイスカウト活動は、その最大のコンセプトは「地域の青少年を、地域の大人たちが導く」という状態の達成であり、その着地点は=「自らの真の幸福を追求するという事と、隣人への奉仕は究極的に一致する」という人生観の獲得であると信じます。

 この着地点の達成のために、野外活動を選択しているというベーデンパウエル卿の教育方針は、真に霊感に富んだ、人間存在の真実に拠り所をもった発想であるに違いないのです。

 我々は、ボーイスカウトを信じ登山を信じる者として、このアクティビティ(登山)をスカウティングの真実有用なツールとしての完成を切望するのであります(テンション=Maxです)。

 

 しかるに、ボーイスカウト活動の現場における登山活動というものは、少年達からのニーズに対して、決して十分な指導環境があるとは申せないと思うのであります。

 

 最大のハザードは、「登山は危険を内包している」ということです。指導者が地域の成人ボランティアによるこの活動は、リスクを嫌うのも当然だと思います。

 

 これは、私の持論なのですが、登山という行為は本来危険なものです。どんなに安易に見えるハイキングであってもです。

 対象が自然であるかぎりその危険率は決して0%にはできないという宿命を理解するべきです。

 

 それは間違いないのですが、決して0%にはできない危険を、如何に0%に近づけるか…というところに、登山活動の人間的・教育的真価があるのです。

 ですからボーイスカウトの指導者・育成者たる者、もし登山のような、すこしだけ攻めたアウトドア・アクティビティをスカウティングで展開しようと望むのであれば、退屈なKYTシートなどにおもねるのでなく、自らのライフワーク・楽しみとして、山や自然に分け入ってほしいと思うのです。

 

 

 ギルウェル山の会は、そのような気持ちを共有するボーイスカウト活動が大好きな山屋たちによって産声を上げました。ですからどうか、暖かい眼差しで見てやってください。

 そして、良かったら一緒に山に行きませんか?

武川岳 (地区機関誌への寄稿より転載)

以下は、地区の機関誌に掲載した原稿から掲載いたします。そのため、通常の記事にたいして違和感が出ております。

 

もう少し前の話しですが、3月22日(土)に奥武蔵の武川岳(たけかわだけ、むかわだけとも)
という山へ行ってきました。位置的には秩父市の有名な武甲山から東南東約3kmほどの、標高1052mの低山です。
 3月22日6:00am、霞ヶ関駅北口ロータリーに集結したのは山すがたのオジさん4名。なにゆえボーイスカウトの機関誌にオジさんだけの記事が載るのであるか? そのへんは、のちほど…。
 定刻6:00に集結したオジさんたちは、1台の車に乗り込み、「勝手知ったる」といったハンドルさばきで小一時間ほどの後には名栗渓谷をすり抜けて、入間川の源流域「名郷」の駐車場に車を入れたのでした。
 簡単に身支度を整えて、歩き出し7:30。妻坂峠をめざす我々は、谷に沿った林道ぞいに山中入を進む。余談だが、山に入り込む谷には、それぞれ地域によって呼称に特徴がある。「~沢」は関東以北に比較的多い。関西圏以西では「~谷」というのが多いようだ。さらに地域によって独特の呼び名がある。この入間川上流部は「~入(いり)」と呼ばせる沢名が目立つ。小さな山稜ひとつ隔てた高麗川水系上流部では「~谷津(やつ)」という呼称が多い。また、それらとは別に「~窪(くぼ)」という沢名もポツポツ点在している。これは小さな尾根ひとつ隣の水系にまったく別の文化圏があるということであり、こういったところも山の楽しみであります。近郊の山里、侮るべからず。

 今年は100年に一回という記録的豪雪が、2週連続で来ちゃった恐るべき年でした。そんなわけで、なんと春の奥武蔵で、谷沿いのルートは本気のキックステップをしました。そして、あろうことか、残雪にルートを失ったのであります。

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大変良い経験をいたしました。2時間ほども登高に時間をかけ、本来出るはずの妻坂峠よりおよそ80mほども標高の高い西方の主稜線に出て、ホウホウの態で妻坂峠に到着したのが10:00頃。行動食などを摂り15分ほど休んで登高再開。陽当たりの良い尾根上でも結構な積雪で、かなりの雪上行動をしながら10:50武川岳(1052m)山頂に到着。

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周囲に残雪は目立つものの、陽当たりも良く、風も穏やか。コンロでお湯を湧かして、カップラーメンを作ったり、コーヒーを淹れたり…。小一時間ほどもシヤワセな山頂の時間を過ごし、お昼すこし前にオジさんたちは下山開始です。山頂からすこし東に行くとすぐに主稜線から南東方向に道が分かれますので、そちらに行きます。雪があるので、歩行は結構気を使います。このような年ならば、アイゼンを使用するべきでしょう。私は携行していなかったので、本気モードのキックステップで対応しました。軽登山靴だったのでまだ大丈夫でしたが、運動靴だったら手も足も出ない状態でした。
前武川岳での分岐は右です。
途中、天狗岩という石灰岩の稜線が出てきます。男坂、女坂というのに分かれていて、下って行くと右は岩稜沿いの男坂、左は樹林のなかの女坂に分かれます。男坂はたしかに岩がちなのですが、適度な緊張感がある程度なので、オススメです。女坂と再び合流してさらにどんどん降りて行くとフェンスが出てきます。ここも武甲山のように石灰岩を採掘しているところで、フェンスで立ち入りを制限しているのです。どんどん、どんどんこうやって山をコンクリに変えてしまうのは、いかがなものなのでしょうか?
 午後2時、梅の花がさく山里に戻ってきました。車にもどり、名栗湖畔の「さわらびの湯」にて汗を流したのでした。

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 さて、このオジさんたちなのですが、そもそもは一昨年の夏、秩父ミューズパークで行われた「埼玉キャンポリー2012」の場外プログラム委員会のメンバーが、◯◯◯地区の山好きのオジさんたちで構成されていて、すべてが終わった反省会で「このままムザムザ終わって良いのか !?」的な流れから、山の同好会を結ぶ運びとなったのです。
 その名も「ギルウェル山の会」 …恐れ多いです。 ですが、気にしないのです。そんなヒマは無いのです。うかうかしていると、人生はどんどん削れていってしまうのです。

 毎月最後の金曜日の夕刻17時、◯◯駅前の「◯◯◯」(某居酒屋)にて会合しております。Adult only! 志を同じくするモノは来れ!

 

※現状では、同地区への情報に限定したいので、このような表記をお許しください。

 

※2 2014年6月6日追記:結局、機関誌への掲載内容は、だいぶ変わりました。いづれにしても地区広報委員会の、当会への高い関心を示していただいたことを、大変ありがたく思います。

vol.3「空と山のあいだ」

山岳遭難 ( ノンフィクション・ルポルタージュ ) から学ぶ

 

「空と山のあいだ」

 ― 岩木山遭難・大館鳳鳴高生の五日間 ―

田澤 拓也著   角川文庫  ¥590

 

 昭和31年5月に槇有恒隊長率いる日本隊の、マナスル初登頂の快挙に刺激されわが国にも空前の大衆登山ブームが訪れた。「霊峰」「女人禁制」とうたわれた修験者たちの、修行の場とされていたような国内の山々はピッケルやザイルなどの、近代登山用具をたずさえた青年たちが、全国各地の山々で麓から山頂に向かって急速に押し寄せていった。そうした中で、すでに悲劇は続発していた。昭和37年の正月4日間には全国で過去最悪の「死者行方不明者31名」を記録し、1年後の昭和38年1月には、愛知大学山岳部員13名が北アルプス薬師岳で遭難していた。そうして、東京五輪の9カ月前の昭和39年1月、本州北端の青森県にある津軽富士(岩木山)で今度は戦後生まれの高校生たちの悲劇が発生したのである。秋田県大館鳳鳴高校の山岳部員5人が遭難、4人が死亡する事後が起きた。連日の大掛かりな捜索にもかかわらず、5人の行方はわからない。岩木山津軽富士といわれる霊峰だが、標高わずか1625メートルの単独峰だ。一体5人に何が起きていたのか。ただ一人の生還者の証言をもとに、地元の関係者、捜索隊、警察などの状況を取材、猛吹雪の中をさまようながらも最後まで、お互いをかばい合う 5人の生と死の軌跡を描き出す感動のノンフィクション。……本文より。

 

(H林)

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vol.2「みんな山が大好きだった」

「みんな山が大好きだった」

山岳遭難(ノンフィクション・ルポルタージュ)から学ぶ

山際淳司著 中公文庫 ¥780

 

 『 "幸福な死"と"不幸な死"があるならば、山における死は、明らかに前者に属するのではないかと思う。人間の死は大抵の場合不幸だとなっている。それは、この世に取り残された側の感傷のせいでもある。悲嘆にくれるのは死んだ本人ではなく、死んだ人を送らなければならない人たちだ。では、死んでいく側にとって幸福な死とは何だろう。生きているうちに、ひとつも遣り残したことが無い"大往生"は幸福な死だろうか。
 アルピニストの死が全て幸福な死であるとは思わない。山における死といっても、さまざまなケースがある。死と格闘する間もなく予期せぬ死に見舞われたことは、誰にとっても不幸なのである。
 死と格闘することを前提にして山に赴く先鋭的なアルピニストと呼ばれる男たちがいる。彼らはもちろん死のうと思って山に行くわけではない。あらゆるケースを想定し、それを乗り越えられる体力、知力、技術があると信ずるから出かけていくのだ。しかし、それでも死とすれすれの関係になることを知っている。
 アルピニズムとは、山において多くの困難を自ら引き受け、それを乗り越えていく姿勢を意味している。先鋭的アルピニストであればあるほど、死を意識せずにはいられない。生と死のきわどい吊り橋を渡ることになる。死はいつも彼らのすぐ隣にいるのを承知で、雪煙を求めて氷壁に向かっていく。彼らはいわば、死に対する確信犯である。
 彼らに対し死は突然やってくるが、それは偶然ではない。必然的にやってくる死である。先鋭的アルピニストたちはそれを知っている。知りつつなお、死の領域に足を踏み入れてしまうのだ。生と死が紙一重で交差している領域が彼らにとっては限りなく魅力的であるからだろう。
 ひるがえって、私たちは日常生活の中で死を意識するのは難しい。平坦な生ばかりが溢れ退屈した世の中は、死を忘れてしまった時代の不幸の一つだ。生きることに対する緊迫感が失われ、座標軸が消失し、浮遊するようにふわふわと生きている。雪煙に消えていった男たちを今一度、蘇らせることによって彼らの切羽つまったロマンチシズムを解剖してみようと思うのだ。残された私たちが鮮烈に生きることを、つかの間思い出すためにである。
 ジャン・コストはこう言っている。「 もし私が山で命を落としても、悲しみ嘆いてくれるな。それよりも、あいつは望んでいたような死にようをしたと言ってくれ」。
 山における死は、ひとつの特権なのだ。それは無駄な死ではない。最も力強い物象の真只中で、全力を尽くして闘っているときに生命を失うことは死に甲斐のある事なのである』…本文より

 加藤保男、森田勝、長谷川恒男、松濤明、加藤文太郎など、有名な登山家の名前を、山に登っている人なら、鮮烈に覚えていると思います。そして彼らはいずれも、山で遭難して帰らぬ人となってしまった。
 名アルピニストたちの生と死を、限りない哀惜を持って、山際淳司が彼らの生き方を綴ったのが本書である。
 "人は何故山に登るのか"
 "危険な行為を何故するのか"
 この古くて新しい疑問に対するひとつの答えが本書であるかもしれないし、読む人によって全く理解が出来ない、別な世界の生き方かもしれない。

 

(H林)

 

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